情報公開の方向性

 情報公開のステップについてまとめておこう。
 将来は、こういった方向性になるであろう。

① 情報を収集する。
  ネット情報、書籍、過去の体験や実例などでもよい。間違いは削除して、まとめていく。

② 情報を公開していく。
  できる限り多くの人々の、検索されやすいところに公開する。
  維持コストを下げるようにする。
  非公開の情報も1年経ったら公開していく等とする。

③ 公開した内容について改善を繰り返す。
  マーケティング的な反応を得る。
  反応が大きいところは、改善・充実させる。
  完成度を高める。
  ネット情報の中で、比較的価値がある状態を維持するようにする。

④ 内容や価値がないところは淘汰させる。

 どういうことか、少し考えておこう。
 Google に象徴されるけれども、ここ10年くらいで、情報というものに対するとらえ方や構造が変化した。

 従来、ノウハウや情報は、できる限り非公開にして、情報を蓄積すればするほど、差別化できるという発想があった。

 企業や個人でもそうだ。いまだに、こうした旧来の発想をしている人はたくさんいる。
 ウェブに出ている情報の質が低く、情報の取得にはコストがかかっていた。
 情報は人に付随していたので、周囲が博学と認める人を権威ということにして、手間をかけて情報を取得し、人手やコストをかけて組織を維持していた。知識は覚えていることが重要だった。検索技術が未熟だったからだ。

 ある一定量の知識が求められる専門分野があったとする。周囲からランダムに質問や問題が持ち込まれ、対応する必要があったとする。
 検索技術が未熟な時代では、その知識体系を丸ごと覚えていることが決定的に重要だった。覚えていれば、パターンがわかっている問題については、即、解決できる。知識を詰め込んでしまえば、それだけで専門家として通用した。

 Google に象徴されるように検索技術が進み、ネット上での情報の蓄積が進んだ。ネット上で情報を維持したり検索するコストは、ほぼゼロになった。そして、一部の良質な情報だけが評価されるようになった。

 良質な情報が続々とウェブ上に蓄積されるようになった。網羅性が上がって、大概のことはウェブで検索できるようになった。

 みな、Google検索を使うようになった。

 旧来の組織で、すべての情報を囲い込もうとするところは、情報がすぐに陳腐化してしまう。情報を囲い込むと、その情報を管理する人や組織を置かないといけなくなる。情報が増加すると、メンテナンスのコストが急上昇することになる。
 情報公開をしない組織は、メンテナンスの行き届かない古い情報に埋もれ、時間を奪われることになった。
 何かを調べる場合も、情報量が少なく、メンテナンスされていない、ガラパゴス化した情報はいまさら誰も見ない。みな、Google 検索している。

 大学教授や会計士、弁護士、医者でも、下手なことをいうと、すぐにネット検索されて、「それは情報が古い。YouTube のほうが説明がうまい。授業料を返して欲しい」等と指摘されるようになった。
 権威が、ネットの情報やコストパフォーマンスに負けるようになってきたのだ。

 情報の蓄積について価値基準が変わったということだ。

 情報の蓄積のみを行って、外部に情報を出さない組織は、情報が蓄積され、システムを複雑化させてしまうにつれ、メンテナンスのコストが上がっていく。いずれは崩壊してしまう。
 また、偏った情報、間違っている情報、わかりにくく勘違いを起こしやすい情報はいくらでもある。正しい情報が増えていくとしても、一部に間違った情報が埋もれていると、例えば、投資や参入、撤退等をしようとしたとき、判断を間違えるリスクが増えることになる。情報が増えすぎると、問題がどこにあるのか、何が適切か、判断しにくくなるのだ。

 言い方を変えると、もし、情報を抱え込んでクローズにすることが決定的に重要な分野であれば、そうした組織や企業は、高付加価値、高収益企業になっているはずだ。
 ブラックボックス戦略などといわれると素朴に信じてしまう人が多いが、何をブラックボックスにするのかが重要であろう。ネットや専門書で無料で公開されているものをブラックボックス化すると、抱え込んだ組織ごとマイナスになる。もともと0円の情報を隠すために、人件費を投入する格好になるからだ。
 人材や情報の蓄積量という点では圧倒的に有利だったはずの大企業や大組織で、いまでは崩壊状態になっていたり、過剰な人員を抱えていたり、予算削減が求められたり、再編を繰り返しているところはいくらでもある。
 情報の抱え込みや蓄積、秘匿化は、実は、勝敗を決める決定要因でないということだ。

 個人でも企業でも、基礎的な情報はできるかぎり異分野で多数の人に公開し、改善や自然淘汰をうながしたほうが競争力がつくという発想が出てくる。

               終わり 

ポイント制度一考

 ポイントカードを発行している飲食店があるけれども、支払い時に「ポイントカードを持っていますか」ということを聞くところがある。週に何度か行く店で、いつも同じ店員が対応していても毎回聞くのだ。

 飲食の場合、食事の選択肢は広いほうがよいので、自分の場合、ポイントの会員にはあまりならない。飽きたら行かなくなるし、食べたくなったら行くだけだ。
 サービス券をただ配るだけならまだよい。しかし、「ポイントカード持っていますか」と聞かれると、朝、急いでいても返事をしないといけないし、「その分、高いのか。煩わしいので他があればそちらに行きたいのだが」と思う。
 焼肉を1万円分食べて、帰りがけに「ポイントカードは持っていますか」と聞かれ、カードがなかったとする。ポイント還元率5%程度なら「焼肉1皿分損したのか」と思うことになる。これは、他店に行こうと思う動機としては十分だ。

 店側が勝手に決めたルールのため、店員と客との間で煩雑な受け答えをしないといけない。店員は「あっ、またこの人が来た」と思っている。客は「この前、ポイントカード持っていないっていったのに」と思いつつ受け答えをしている。大手百貨店や有名店でもそうだ。
 客がどう感じるかとか、当たり前の馬鹿馬鹿しさに気づくという、現場の皮膚感覚を失っている。本来のサービスがわからなくなっているのだ。

 その企業の本業を考えたとき、その「ポイント制度」は本当に必須であって、付加価値を生み出しているのだろうか。

 クレジットカードでもポイントカードでも、そのシステムを維持するためのコストがかかっているはずだ。
 その店で、ある一定の売り上げがあったとき、固定客や新規客の割合、固定客のうち、ポイント目当ての客が何%か、具体的な数値で推測できると思う。
 ポイントカードのコストが何%で、ポイントカードのやり取りで行列ができると他に流れる客が何%かも予測がつくであろう。
 その店に出入りする人々を見ていれば、ポイント制度を維持/廃止したとして、どれくらい固定客、新規の客が変動するか、おおよそ見積もることができるはずだ。

 もし本業で勝てる自信のある企業であれば、本業で勝負すればよい。コーヒー店だったらコーヒーで、パン屋だったら焼きたてパンで勝負すればよい。ポイント制度は廃止して、その分、本来のサービスに専念すればよい。

 本業で勝てない企業であれば、ポイント制度のように、本業以外のオマケで勝負するしかないであろう。売っている製品が他店と同じで、その店舗の存在意義が特にない場合は、オマケか価格で勝負するしかないであろう。新聞販売店が洗剤を配っているようなものだ。記事の内容では売れないということは、現場の販売員がよくわかっている。

 ポイントの種類が増えすぎて、すべてのカードを持ち歩くことはまれだ。
 家電量販店で商品を見て「買おう」と決めたとする。しかし、結構高い確率で、ポイントカードを家に忘れてくるので、買わなくなる。
 あとでネット検索をすると「ネット価格のほうが安い。まあ、必須ということでもないか」と気づき、やはり買わなくなる。

 ポイントカードの導入により、客が購買行動を起こすのに必要なハードルを1つ増やしてしまっている。
 すると、客に他店や他製品を検討させる機会を与え、ネット価格より高かったり、他によい製品があることがわかると、客はさらに購買行動を控えてしまう。客にとって、ポイント制度の存在意義が「安さ」なのであれば、そこで示される価格は最安値であることが必要であろう。
 しかし、余計なハードルを加えたことで、ネット価格より高くなっていることを客に気づかせるという結果となっている。客にとって最安値でもなく、店にとって客が増えるわけでもなく、購買行為の妨げとなっているのであれば、何のためにこんなことをやっているのだろうかということになる。
 再構築が必要になっているのだ。


 ポイント制度の特性を考えてみると、ポイントで意味があるかなと思うのは、現金でやり取りすると、社会的なコストがかかりすぎて成り立たないが、ポイントを流通させると効率化や波及効果がうながされるところだ。

 例えば、小銭をやり取りすると、そのための人件費のほうが高くなってしまう場合がある。そこで、現金のやり取りをやめて、ポイント通貨が使えるようにすると、取引が活性化するというようなところだ。
 ネットの小額決済も同じだ。10円程度のモノを物々交換していたとする。物々交換のたびに、いちいち現物を動かしていたり、現金や人手を介在させると、手間だけで10円を越えてしまうことはいくらでも起こりうる。
 そこで、暫定的にネット上でポイントで支払えるようにしたとする。すると、社会コストが下がるので、ポイントが存在する意義はあるだろう。社会コストが下がった分のあがりから、利益の源泉を得るのであればよい。

 JRのスイカなども同じだ。電車に乗るたびに、いちいち小銭や切符の現物をやり取りしていたのでは時間や手間のコストが大きすぎる。そこで、カードや電子マネーで支払えると、(乗降客数)×(時間短縮分)だけ、社会コストが下がる。社会コストを改善した一部から、カードの維持費を支払うのであれば、十分にペイすることになる。

 また、税制上の問題はさておくとして、株主に、株主配当を優待ポイントで還元することにして、配当にかかる税金分、優待ポイントを多く上乗せしたとする。こうすると、税金がかからなくなって売上が増加する分がプラスになる。
 言い換えると、他社は、優待ポイントを使わずに現金で株主に配当を出していたとして、株主は商品を現金で購入していたとする。その企業と株主は、納税分を余計に負担するので、しだいに衰退していくことになる。

 他に、コンビニや飲食店で現金で支払ったとき、つり銭をポイントカードにチャージできるとよい。また、財布に入っている全ての小銭を簡単にポイントにチャージできる機械があるとよい。
 小銭をやり取りする時間と手間はかならずコストになる。導入により社会的なコストが下がるのであれば、ポイント制度が存在する意義がある。

 
 

 

購入したいパソコン

 購入したいパソコンについて書いておこう。
 こういう製品が出てきたら、海外製・国内製によらず購入するであろう。

・ USBで起動するパソコン 

 ノート程度のサイズでUSBを刺すとそこから起動するパソコン。起動USBは市販されていて、パソコン本体に刺すとそのまま起動するもの。起動USBは書き換えできなくてよい。
 ハードディスクは本体に内蔵されていなくてよい。数年で壊れるのであれば、ないほうがましだ。
 ノートパソコン側に2つくらいのUSBの端子がついていて、1つめが起動USB用、2つめがUSBハードディスク用として使えるとよい。

・ 起動が早いもの 

 起動USBを書き換え不能として起動を早くしたもの。起動が数10秒以下程度のもの。
 ノートパソコンの液晶画面を開くと、すでにウェブブラウザが起動しているくらいだとよい。

 起動USBを書き換え不能としてしまえば、ウィルススキャンも不要となる。その分、処理が早くなるはずだ。

・ 数年経っても動作が遅くならないもの 

 冷蔵庫でもテレビでも、使い込むほど動作が遅くなっていくという製品はない。数年使っても起動時間や処理速度が変わらないもの。

 また、USBで起動できるようにすれば、OSの買い替え時、ノートパソコンの液晶画面などは捨てずに済む。パソコンを丸ごと捨てずに済み、廃棄の費用が減る分、買い替えが容易となる。
 人為的なブームや使える部品を廃棄させることによって消費が生じるのではなく、よいものが評価されることで製品が売れるようになって、マーケットが適正化する。

・ インターネットとメール、メモ書き程度ができるもの 

 ソフトのインストールは、外付けのUSBハードディスクにインストールできるとよい。外付けのUSBハードディスクを取り去れば、購入時の状態に戻ることになる。
 複雑な書類作成などは、別のローカルのパソコンで行えば十分である。インターネットに接続するパソコンはネット専用で十分なので、複雑な作業はできなくてよい。ネット用パソコンとローカル用パソコンをわけてしまえば、個人データの漏洩なども気にせずに済む。

・ 集中を妨げる機能が皆無のもの

 パソコンで行いたい本来の作業だけに専念できるようになっているもの。

 ポップアップ、点滅する表示などが出てこないもの。
 バージョンアップや、クリックを強要するダイアログボックスなどが出てこないもの。
 検索時にキャラクターが出てきて動き回るなどの余計な処理がないもの。
 タスクバーにバルーンが出てきて、起動するごとに毎回、クリックを強要するようなことがないもの。
 タスクバーやメニューが「にょろっ」と動いて不快感を起こさせるなど、視覚的に集中の邪魔となる余計な機能が解消されている製品。

 いまのパソコンではポップアップやバルーンが出てくると、毎回、クリックしないといけない。
 パソコンを365日で3年使うとすると1000回ほどは起動を繰り返すことになる。会社と自宅でパソコンを2台使うとすると、2000回くらいは起動を繰り返すことになる。10年ならその3倍で、6000回以上となる。

 もし、パソコンの起動時に、2000回、バルーンが出てくると、2000回、クリックし続けないといけなくなる。
 アプリケーションソフトについても同じだ。ウェブブラウザやPDFリーダを起動するたびに「アップグレードしますか」という画面が現れると、「次回にインストール」というようなボタンを延々とクリックし続けないといけなくなる。
 2000回×(アプリケーションや機能の数)だけ、クリックを繰り返さないといけないことになる。純粋に時間の無駄だ。
 そのソフトウェアや製品を使い続ける限り、自分の将来の時間が無意味なクリック作業に奪われていく。自分の将来の時間を奪う製品を使いたいと思うユーザがいるであろうか。
 結局、そうした製品やアプリケーションソフトからユーザは離れていく。
 本来、パソコンなどの機械は、人が行う作業を代用するために存在するものだ。機械が人間にクリックなどの作業を強いるというのでは話が逆だ。
 この本末転倒した発想が完全に払拭された製品になっていることが必要だ。アップデートの推奨画面なども不要だ。設計思想が間違っている。

・ 起動時や操作時に音が出ないもの 

 無意味な音声処理にCPUやバッテリーなどのリソースが費やされるのではなく、省電力化や処理の高速化が極められているものがよい。余計な音声がまったく出なければ、スピーカーを動作させる電力を消費せずに済む。音が鳴っている5秒分でもよいので、バッテリーが長時間使えるほうがよい。

 ネットでラジオや海外番組を聴いていることもある。
 音楽を聴いている最中にクリック音やポップアップ音がするという設計はおかしい。ユーザが音楽を聴きたいのであれば、その音楽のみが聴けるようになっていて邪魔は一切しないというのが最低限の機能だと思う。
 基本的に音はまったく出ないようになっていて、音楽の再生などユーザが指定した場合にのみ音が出る、という設計になっているのが本来であろう。
 製品を開発・販売している人に聞いてみたいのだが、会社でもスターバックスでもホテルのロビーでも、パソコンを使おうと思ったとき、「ジャーン」というような音が出て、ユーザは喜んでいると思っているのであろうか。多くのユーザは音を消しているのではないだろうか。

・ 独自機能が皆無のもの 

 添付ソフトが皆無のものがよい。デスクトップやメニューに、「プロバイダ申し込み」等の添付アプリがまったくついていないもの。
 また、マウスパッドなどの周辺機器にそのメーカー独自の余計な機能がついていないもの。
 マウスパッドのエッジなどに触れると、勝手に動いてしまうような迷惑な機能が仕込まれていないものがよい。
 こういう機能が付加価値だと思っているのであれば、その組織ごと将来がなくなるのも仕方がないであろう。パソコンを見限ったユーザがスマートフォンなど他の代替製品に流れていくことになる。

 日本がモノづくりが得意なのであれば、本来、開発されていてよいであろう当たり前の要望を書いてみた。

              終わり 

不文法と成文法

 法律には、不文法と成文法というのがあって、不文法を採っている代表例はイギリスということを、昔、習った。
 この程度の説明だけを聞くと多くの人は、成文法のほうがきちんとしているという印象を持つと思う。

 「ルールは文章で規定されているほうが優れているし、安心できる」、「イギリスは、なぜ規定を文章にしないのだろうか。効率が悪い」という程度の認識になると思う。 
 これで思いつくものとして、ISO、国際標準化機構がある。規格や業務内容を文書で規定しておき、それに従うことがよいことだと思い込ませようとする一面がある。

 こうした考え方が強くなるとどうなるか。

 「規定がないのなら従わない」、「マニュアルで規定されていないのなら、その仕事はしない」、「文書で規定されていないものは自分の責任範囲ではない」と思い込むようになる。
 こうした人々を管理するには、どんどん規定を作るしかなくなる。規定がないと従わないし、働かないのだから。
 どんどん規定を作ると、一部の規定を変更することは、もっと難しくなる。他の規定と矛盾が生じてはいけないからだ。こうして、あらゆる組織ごとに規定が増殖し、作られた規定を変更することはもはや不可能になっていく。とても高コストで硬直化した組織ができあがる。
 原子の個数ですら、数グラムで10の数10乗のオーダーを超える。すべてを文字であらわすことは、もともと不可能だ。
 ルールが無限に作られ、社会は硬直化し、税負担なども増える。
 結局、その組織や社会にいる人々の程度に応じた社会システムが強化されるということだ。
 校則を無視しようとする生徒が多い学校に厳しい校則がたくさんあるようなものだ。ルールを欲した人々がルールでがんじがらめになるだけなので、因果応報といえる。

 企業の場合、どうなるか。
 新しい製品やサービスの作り方は、当然、文書には規定されていない。すると、過去の規定に記載されているのと同じ製品を作り続けたがるようになる。
 その結果、新年度セールやクリスマスセールのたび、ほとんど同じテレビや携帯電話、パソコンを発売し続ける。旧機種は買い叩かれるだけだ。
 中の部品の品質は変わらず、買い叩かれるだけの新製品の発売を繰り返している。驚くべきことに、彼らのうち誰一人として、それを止めることができない。彼らにできるのは、過去の規定に書かれた作業を早く繰り返すことだけだ。
 新しいコンセプトの製品は、当然、生み出せなくなる。規定に書いていないからだ。規定に従うことはよいことで、規定にないことをするのは悪いことなのだ。
 皆、自分で考えることをしなくなり、臨機応変、創意工夫という面が失われる。変化には対応できなくなる。儲かる製品の規定を誰かが作ってくれるのを待っているだけの集団になる。規定がないと、どうしたらよいか考えることができないのだ。

 また、文書に書かれている規定を守ればよいだけなら、創意工夫をしないのなら、安い海外製がある。同じネジ、同じ部品なら、台湾製、中国製のほうが安い。
 規定どおりの仕事をするだけなら、アウトソーシングされて海外と比較される。アウトソーシングせずに囲い込んでもよいが、その場合、その組織や周辺ごと、停滞していく。何とか工場のようなものだ。
 海外でもできる程度のマニュアル作業に従うことがよいことだと思い込んでいる人々が、モノづくりは日本が一番だと信じていて、だんだんそうした人々が没落していく。

 法律がどんどん作られた事例としては、中国の科挙制度が思い浮かぶ。科挙に合格した人々は確かに記憶力はあったのかもしれないが、彼らは何を残したのか。
 成文法的な発想が当たり前だと思うと、規定が増えて組織や社会は高コスト化、硬直化していく。
 ISOでも何でもよいが、自分たちは不文法にして、他人は成文法にしておく。規定や規格は文書化させて、同一枠内での価格競争に追い込む。すると、慣習の違いを利用した罠に気づかない程度の人々の労働を安く買い叩くことが可能となる。
 アヘン戦争の教科書的な記述からは外れてしまうかも知れないが、成文法で硬直化した中国は、臨機応変で小回りの利く、不文法のイギリスに負けたという解釈はできないだろうか。

デジタル化の方向性

数年先のデジタル化の方向性を列挙、予測しておこう。

買い物は、ネットスーパー化する。
銀行は、ネット銀行とコンビニATMに飲み込まれる。
ネット証券が普通になる。
家電量販店は、ネット宅配化する。

スマートフォンは、接続無料化する。
パソコンは、ネット端末に特化していく。

大学教育は、ネット動画化する。
学習塾も、ネット動画化する。
語学学校は、海外媒体に飲み込まれる。

書籍は、デジタル化する。
新聞は、ネット媒体に置き換わる。
ニュースは、動画ニュース化する。

ネットラジオが普及する。
ホームページで見られる、ネットテレビが普及する。
選挙は、ネット化する。

旅行は、ネット予約化する。
現金は、ネット支払い化する。
現金を介さない、価値のやり取りが主流になる。

会計・財務・経理は、フリーソフト化する。
エクセル、ワード、データベースは、ウェブに吸収される。
経営システムは、フリーソフト化する。

広告は、ネット広告になる。
法律相談は、ネット検索で済むようになる。
医療は、ネット情報化・ネット診断化する。

海外の動画ニュースを見るのが普通になる。
動画サイトをつけっぱなしにするのが普通になる。
ゲームなどの娯楽もネット化する。
部屋の掃除は、ロボット化する。
仕事は、在宅・遠隔勤務化する。

海外の動画テレビで旅行気分や外国語環境を楽しむようになる。
海外ゲームを楽しむようになる。
自然に、外国語を話す子供が増える。

デジタル化が進んでシンプル生活化する。

           終わり 

スペースのコスト

 賃貸の相場を使ってスペースのコストを把握してみる。

 都市の郊外に住んでいるとして、3LDK ≒ 73m^2 の部屋を月12万円で借りているとしよう。73m^2 ≒ 22坪、5,400円/坪・月程度となる。1坪≒3.3平米である。

 引越し用ダンボール(大)のサイズは、550mm×400mm×300mm 程度、床面積は0.22m^2、体積は0.066m^3 である。
 部屋の床にこの段ボール箱を敷き詰めたとする。するとトータルで、73m^2/0.22m^2 = 331個に相当する。部屋にダンボールを4段くらい積むことができるとすると、部屋に入るダンボール箱の総数は、331個×4段 = 1,324個となる。
 12万円で借りた部屋に1,324個のダンボール箱が入る計算となるので、1個あたり91円/月のコストがかかることになる。

 郊外であれば、1個のダンボール箱のスペースに約100円/月のコストがかかっていると覚えておけばよい。
 東京都の都心であれば、上記の2倍くらいする部屋はたくさんある。従って、200円/月程度はかかっていることになる。

 ダンボール1個の床面積に人が座っているとすると、そのスペースに4段分、400〜800円/月がかかっていると暗算で見積もることができる。
 オフィス机の場合、大きさは、幅1,000mm×奥行き700mm×高さ700mm 程度である。床面積は0.7m^2、ダンボール箱4個分の床面積に相当する。すると、郊外で1,600円/月、都心で3,200円/月の維持費がかかっていることになる。

 この維持コストの分、そこにいる人は、余計に働き続けないと将来がなくなることを意味する。
 例えば、そのスペースに座っているだけの人がいたとする。座っているだけでは収入がない。しかし、その人を削減してスペースを賃貸に出せば、賃貸収入が得られ、裕福になっていく。結果、スペースを無駄にしていると、相対的に貧しくなって、いずれは排除されていくことになる。

 いまは USBハードディスクなどの価格が非常に安くなっている。デジタルデータで情報や資産を所有できれば、維持コストは、ほぼゼロにできる。ダンボール1箱分を処分すれば、100〜200円/月程度、維持コストを削減できる。
 従って、書類などのデジタル化を進めて、ダンボール箱単位でスペースを減らし、人・モノ・場所への依存度を下げれば、維持コストに対する情報の活用度をほぼ無限大にできることになる。負担が減って身軽になる。

                終わり 

10年以上も前の教科書で学ぶ人々

 総理大臣が昔の憲法学者の名前を知らないそうだけれども、自分が少し意外だったのは、有名大学の法学部ではいまだに10年以上も前の教科書、基本書で学んでいるということだ。
 法律の学者はここ10年、何をやっていたのだろうか。だから、法律分野の情報公開や情報化時代の著作権対応は進んでおらず、国際競争力がないのかと思ってしまう。
 法律を学ぶ人々も、こうした基本書や法律を学ぶのに、モチベーションが何年も続くのかと思う。10年以上前となると、スマートフォンはないし、Google なんて創業されたころだ。ネット検索も普及しておらず、膨大な知識を覚えていることに価値があった時代の基本書だ。違和感を感じないだろうか。

 インターネットで検索すると、工学や数学などでは、YouTube で有名大学の講義が無料で公開されている。一方、法律では、わかりやすい条文の解説、最高裁判決、通説、裁判の経緯などの情報が少ないと思う。
 法律体系を章別に個々わけてよいから、専門外の人や外国人であっても理解ができる程度の講義や情報が公開してあってもよいと思う。

 法律関連の人々は10年前の基本書は正しく、問題はないと考えているのだろうか。そうであれば、10年前に戻ったとすると、原子力発電所は安全・安心で壊れることはないし、憲法違反でもないということになるのであろう。彼らが見ているのは過去であって、現在や未来ではない。過去に強くバイアスがかかった人々が優秀であるとされ、実際、そうしたモノの見方をしている。

 弁護士法を見ると「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と書いてある。これを読んで、ジョークではなく、本当にそうだと思う人が、今、一体どれくらいいるのだろうか。
 もしこれが正しいのなら、法律関連の人々が安全としてきた発電所が壊れたのであれば、彼らは真っ先に、社会正義の実現ため、原子力発電所に入り、地元住民の救済にあたるのであろう。「ただちに健康には影響がありません」などとはいわないはずだ。

 最高裁等の裁判官が判断を間違え、法律家や大学教授全員が結果的にその見解を強化したり現状維持をする側についたとする。その結果、原子力発電所が続々と建設され、ついに壊れたとき、彼らには、後始末をする責任はないのだろうか。
 黙っていれば逃げ切れると思っているのだとするとひどい話だ。社会正義を謳っていた人々は消え、残された人々は後片付けをしないといけない。100年や200年が過ぎたとして、懲役刑のように後片付けをしている人々は、原子力発電所が安全と判断した裁判官や憲法学者、法律家をどう思うであろうか。

 「基本的人権の擁護は不可能です。社会正義の実現もできませんでした」と認めたほうがよいと思う。「他人の社会正義の実現より、自分の収入のほうが大切でした」としたほうがまだ建設的だ。