多数決の活用法

 多数決というと選挙や議決というものが思い浮かぶけれども、こうしたものは今、あまり機能しなくなっていると思う。多数決が平等で公平で正しいと素朴に信じないほうがよい。判断ミスの原因になる。
 意見を集約して一本化するという発想は、単純すぎて、現実を正確にとらえられない。実態を少しゆがめると考えたほうがよい。多数決の使い方が間違っているのだ。

 ということで、多数決の活用法を考えてみよう。

 簡単な例としては、モノや書類を片づけるとき、自分が探すであろう場所に片づけるというのがある。高い頻度で探すであろう場所にそのモノを片づける。すると、すぐ見つかる。モノがなくなるのは、いつもと違うところに置いたときである。

 書類のフォーマットや入力欄を作る場合も同じだ。多くの場合、日付とタイトル、氏名を上に書き、詳細を下に書く。従って、新たにフォーマットを作成するときは、多数決により、多く使われているものに合わせたほうがよい。記入漏れや勘違いの防止にもなる。ウェブページの入力欄も同じだ。
 書類を作る際の単語や用語の表現についても、複数の書き方がある場合、より多く使われている表現を採用する。こうすると、伝達ミスや、電話問い合わせを減らすことができる。

 新しく製品を購入する場合も同じだ。テレビでもエアコンでも、多くはこうするであろうという自然な操作をしてみる。違和感があるのなら、使いこなせないと思って買わないほうがよい。店員やメーカーにも「この製品は電源ボタンが変なところにあって操作性が悪い」と伝えたほうがよい。

 別の例として、パソコンのソフトウェアを作る場合を考えよう。例えば、ファイルを開いたり保存したりする機能は、多くのソフトウェアに共通する。こうした機能は、基本機能であるものほど、画面の左上に寄せて配置されていることが多い。
 過去、あらゆるソフトが販売され、自然淘汰が起きた。生き残ったソフトウェアは、多くが基本機能を左上あたりに配置しているものであった。そうであれば、新たに作るソフトウェアも、自然淘汰の結果に従ったほうが合理的であろう。ソフトウェアのボタンやメニューに書いてある、「ファイル」とか「編集」というような用語も同じだ。

 つまり、より多くの人々がそこにあるであろうと思う場所にその機能を配置する。より多くの人々が操作方法を探すとき、探すであろう場所にその機能を配置する。これを多数決原則ということにしよう。

 この多数決原則に従えば、新規ユーザの獲得コストを最小化できることになる。ユーザ側の学習負荷を最小化するということは、新規ユーザを取り込むときの障壁を最小化することと同じだからだ。これは、潜在的な顧客マーケットを最大化することになる。

 企業でいえば、多数決原則に基づいて、申請書類などのフォーマットを統一できたとすると、新人や異動者の教育コストは最小化できることになる。書類作業に関する業務効率を最大化できることになる。
 数字で見積もってみよう。書類の種類が100種類あって、それぞれがバラバラのフォーマットだとすると、100種類のフォーマットの入力方法を覚えるための教育コストや、記入・申請や承認時のチェックに要する時間コストは膨大なものになる。
 例えば、社員が1000人いたとして、それぞれが、「これってどうやって申請するんだっけ」というやり取りを5分ずつしていたとする。すると、100フォーマット×1000人×5分=約8000時間になる。人事、総務、庶務という人々が10人で対応していたとすると、1人あたり800時間となる。1日8時間労働、労働日数を年200日とすると、100日、ほぼ半年分の労働がこうした対応により奪われていることになる。
 記入方法を忘れたり間違えたりするたびにこの時間は失われ、純粋に生産性を下げているだけのコストということになる。
 1000人のうち5人分の労働が純粋に無駄な作業をしているとすると、0.5%となる。その企業の純利益がもし数%しかなかったとすると、全体の生産性を下げている彼らの入れ替えを検討したほうがよい可能性がある。

 ホームページ、スマートフォン、パソコンのようなデジタル技術の場合、統一性のない、無秩序と思えるようなインターフェースが多い。これは、技術やサービスが成熟していないことを示している。上と同様の無駄が生じていると考えてよい。
 ホームページを作る場合、各機能をどこに配置しようかと思ったときは、多数決原則に従ったほうがよい。大手企業であっても、素人が作ったのではないかと思うようなデザインが多い。ログインボタンの位置なんて、どこにあるか分からないようなものがある。
 大手銀行のウェブサイトで、「ログアウト」をクリックすると、お知らせがありますという画面に移るものがある。多数決原則がわかっていれば、ありえない設計だ。

 ブランド物のバッグなど、機能を強く追求している製品や一流品と呼ばれるものは定番デザインが大概決まっている。究極の機能美が実現された製品であれば変更の必要がない。統一性がなく突飛な変更を繰り返しているのは二流、三流品だ。迷走しているものは、早く淘汰させたほうがよい。

 

否定の証明のコスト

 「否定の証明は悪魔の証明」という言葉がある。「お化けのいないことの証明は悪魔の証明」とも言われる。
 お化けがいることの証明は、お化け本人をつれてくれば済む。
 しかし、お化けがいないという否定の証明となると、宇宙の隅々を調べないといけないので、証明は実質不可能になるというものだ。

 否定用語が入っているというのがポイントだ。

 少し言い換えるとつぎのようになる。
① ソフトウェアにバグがないことを証明するには、無数の手間や時間がかかる。
② 製品に不具合がないことを証明することは殆ど不可能になる。
③ 問題のない社会インフラを整備するためには、無限の税金投入が必要となる。
④ 問題が起きないよう議員立法をし続けると、司法関連の税負担が無限に増大していく。

 よくあるのは、新入社員が何かミスをしたとき、「問題がないことを事前に確認したのであれば、こんなことにはならなかったはずじゃないか」といって先輩が叱るというパターンである。悪魔の証明のパターンだが、新人が気づかないと、ずっと叱られることになってしまう。
 実際は、どういうポカミスが起こりやすいか事前に的確に説明できればよいのだが、教える側の能力不足が原因だったりする。

 否定の証明の対策としては、肯定形に直して対応するしかないであろう。

 例えば、上の①であれば「ソフトウェアの各機能が動作するか確認する」ことで対応する。
 ②も同じで、製品仕様をリストに列挙して各項目の動作確認をしました、とすればひとまず対応できる。つまり、機能することを確認したことで対応する。

 特許なども同様で、否定形の特許は基本的に拒絶になる建前になっている。「羽根のない扇風機」ではダメで、「ワッカ状の構造があってそこから風が出る」など、肯定形に直して具体的に書かないといけない。

 少し知恵がつくと応用がある。
 中間管理職が「問題がないか書類をチェックしています」といって仕事をしているフリをするというパターンがある。
 特に品質部門や法務などで、問題が起きないことが重要という価値観が強くなっているところでは、いくらでも仕事をしているフリができてしまう。新しいサービスや価値がまったく生まれていないのに、人件費だけずっとかかることになる。複雑なルールが追加され、生産性が下がっていく。
 周囲は「悪魔の証明」であることを見破って、部外者にとって何か積極的にプラスになるものが生まれているか、業務効率が上がるものが生まれているかを見ないといけない。

 他の例として、消費者が「自動車のブレーキに問題がないことを証明せよ」と主張すると、これも悪魔の証明となる。メーカーは非常に綿密な実験を行って検証する必要が生じる。こうしたコストは必ず製品価格に反映される。こうした消費者が多いマーケットでは、製品価格が高くなる。
 ところが、東南アジアにいくと、同じモノが格安で売られていたりする。顧客が「他国で売られているものと同等の製品が欲しい」と要求しているのであれば、工場から出てきた製品をそのまま販売すればよい。その国では余計な組織を置く必要がない分、安くなる。

 なので、誰かに何かを要求するとき、悪魔の証明の要求をしてしまうと、効果不明の無限のコスト増になりうるということだ。

 現場や実態を知らない人は否定の要求、悪魔の証明の要求をしてしまいやすい。すると、それを受けた側も証明不能なごまかしができてしまう。
 したがって、メリット、デメリットの現実を見て要求したほうがよい。何を削減し、それをどこに回せというような、肯定形の要求をしたほうが建設的だ。
 自動車であれば、この機能はいらないので、関係する人員を削減し、その分、ブレーキの設計部隊や品質チェックの部隊を増強せよと要求したほうがよいと思う。
 あるいは、いまの性能で十分満足しているので、価格を上げるくらいなら何も変えないで欲しいというように、顧客要求が変わる可能性もある。

 公共的なものも同じだ。
 「事故が起きないよう法律を作れ」と要求すると、悪魔の証明になる。
 「怪我をしない公園を作れ」、「事故の起きない発電設備を作れ」というような要求を行政にすると悪魔の証明になる。
 何かやってます、人が足りないんです、という素振りはいくらでもできてしまい、効果不明の無限のコスト増につながりかねない。「安全に問題がないかチェックしています」といって申請書類の誤字チェックをしている人々だけが増加し、現場の実態は何ら変わらない可能性がある。
 過去、機能していなかった組織に何かを要求しても、予算を使い切った後、やはり機能しなかったとなる可能性は非常に高い。
 「あのハコモノを売却せよ。その人員分、現場の安全点検に回せ」、「機能しなかったこの法律は廃止せよ。代わりに、役に立っているこの法律は充実させよ」という両面で要求をしていかないと、合意があったという事実だけが残って、税などの負担だけ増えるという結果になりかねない。

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国語と法律

 仕事の中で法律が出てくることが結構多い。例えば、会計・税金であったり、知的財産法などもある。

 一方、過去に国語の授業を受けて何か役に立ったことがあったかと思うと、思いつくものがあまりない。国語に関しては試験勉強をした記憶がない。せいぜい漢字を覚えたくらいだ。何が到達基準なのか不明なのであった。

 国語教育の投資対効果を考えたとき、誰もが共通してプラスといえるような事項が少ないのではないだろうか。

 そこでであるが、法律の基礎的な読み方くらいは国語の授業に入れてはどうかと思う。
 義務教育や高校教育を受けたのであれば、その国の「法律の基礎的な解釈程度は可能であること」という教育目標の基準があってもよいはずだからだ。

 例えば、交通に関する法律から条文を抜粋し、基礎的な解釈について、トレーニングをする。条文に書いてあることをベースに、正確に解釈して論理的に適用する訓練をする。これを試験で出す。

 少し見方を変えてみよう。

 国会議員なり国の機関なりが法律の条文を作成するとき、「義務教育あるいは高校教育を受けた者が誤解をしない程度の、平易かつ簡素な表現で条文を作成すること」という基準があってもよいはずだ。

 憲法がよい例であろう。
 記載が平易でないところがあって、異なる解釈をする人々がいる。国語教育も不明確なので、解釈の基準も一致しない。同じ義務教育を受けてきたはずなのに、同一の文を見て異なる解釈をしている。

 結果、ずっと不毛な議論が続いてしまう。昔は、有名大学などの法学部卒の人々はものすごく優秀だと信じていた。しかしながら、不毛な議論を解消する決定打を誰も打ち出すことができない。
 青色発光ダイオードの発明のように、昔は不可能といわれていたのに、今は可能になったという人類の進歩があってもよいはずだ。本当に優秀なのであれば、誰もが納得するような、すばらしい解釈や解決策が出てきてもよいはずだ。

 しかしながら、憲法の論議を60年以上もやっていて、いまだに続いている。優秀な法律家や裁判官、大学教授、政治家が多数いたはずだ。
 ずっと議論が続いて決定的な結論はいまだに出ていない。この先、例えば100年議論を続けて、何か生産的なものが生まれるのか。
 法律関係の人々に取っては自分たちの給料が税金によってまかなわれるというメリットがある。しかしながら、その他の納税者に取って利益があるだろうか。
 そこで、法律関係者ではない、多くの人々への貢献度を仮に不明、ゼロとしよう。

 他方、かかったコストを見積もってみよう。裁判官や大学教授等の人数をざっと5000人とし、平均年収を1000万円とする。すると、年間あたり500億円のコストがかかる。これが60年続いている。
 物価変動を無視すると、単純計算で3兆円となる。立法は政治家も関わるので多少、増やして5兆円というところか(どなたか、正確な計算ができる人、お願いします)。

 必ずしも彼らのすべてが、憲法を専門にしていたとはいえない。しかし、憲法でこうなのだから、他でも似たようなものであろうと思われても仕方がないであろう。

 すると、この5兆円は本来誰が負担すべきだったかということになる。青色発光ダイオードであれば白色LEDに応用されて電気代の節約になるなどのメリットがある。購入する人が費用を負担する。
 しかし、60年の法律論議は、何のメリットがあったのであろう。効果が不明なものに対するコストを税金で負担するのは公平といえるであろうか。メリットがあるという人々がいるのであれば、その人々が5兆円を負担すればよい。

 国語教育も法律関連の人々もあまり期待ができないとなると、双方の予算を削減し、組織も多少リストラクチャリングしてはどうだろうか。
 そして、条文を平易な表現に改善し、国語で論理のトレーニングをする。日本語も外国語も論理は共通である。海外でも十分に通用する人材が増えるというメリットが生まれる。

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システム依存度というモノサシ

 システム依存度というものについて考えてみよう。

 例えば、デジタルカメラの場合、旅行にそのまま持っていって写真を撮ることができる。写真を撮るという機能が単独の機械で得られるので、システム依存度を1とする。

 家庭用のスキャナやプリンタの場合、大抵、パソコンと同時に使う。パソコンとスキャナが同時に正しく機能していないと、スキャンするという機能が働かない。そこで、システム依存度を2としよう。スキャンするという機能を得るためには、2つが正しく動いていないといけないということだ。ユーザからすると手間がかかるし、時間の無駄が起こりやすい。

 システム依存度が高いほど、高コストということだ。

 メールの場合を考えてみる。
 従来のメールの場合、Windows パソコンなどのメールの設定をやって、さらにインターネットの接続設定をするようになっている。この場合、メールが機能するには、パソコン設定とネット設定の2つが必要だ。そこで、システム依存度を2としよう。
 最近、Googleメールを使っている人が増えた。Yahooメールでもよい。こうしたウェブメールの場合、パソコン側のメールの設定は不要だ。ネットにつなげてGoogleのメールの設定をすれば終わりである。
 この場合、従来のメールと比べると、ウェブメールのほうがシステム依存度が小さい。従来なら、パソコンが壊れるたびメール設定をやりなおさないといけないが、ウェブメールならその設定をしなくてすむからだ。システム依存度は1.5くらいか。
 仮にパソコンの寿命を4年とすると、従来のメールのユーザは4年ごとにトラブルを経験してパソコンを入れ替える。トラブルに懲りた一定の割合はウェブメールに乗り換えていく。場合によってはパソコンごと使わなくなる。その分、シェアが減っていくことになる。
 つまり、システム依存度は小さくなるよう圧力がかかっているといえる(簡単のため、ウェブメールのデータ漏洩のリスクなどは無視する)。

 デジカメとプリンタの場合、機能が異なるので淘汰の関係にはない。しかし、上のメールの場合、機能が同じなので淘汰の関係になる。
 つまり、機能が同じとき、システム依存度が高い側は高コストとなり、淘汰される側になる。

 他の機能についても同じだ。
 例えば、書類の申請について考えてみる。申請書類がエクセルやワードの独自フォーマットになっていたとしよう。
 すると、エクセルのフォーマットを取得して、エクセルを起動し、入力し、それをネット経由等で送るというステップが必要だ。システム依存度が高い。あるいは、プリントして判子を押して提出するとなると、さらにシステム依存度が高くなる。例えば、プリンタが壊れると申請業務が止まる。
 ここで、ウェブ申請という新技術が出てきたとする。エクセルを起動しなくて済みシステム依存度が下がるので、ウェブ申請に置き換わるという圧力が働くことになる。
 ロータスノーツ、マイクロソフトプロジェクト、パワーポイントなどのアプリケーションソフトにしても同じだ。パソコンを入れ替えるたびにインストールするコストが加わり、習熟するにもコストがかかる。ファイルを開くことができない人が出てくると、対応にかかる時間や手間がすべてコストになる。
 したがって、類似の機能がウェブで出てくると、淘汰される側になる。

 古いシステムを廃止せず維持してもよいが、そのコストは、企業なり、国の機関なりの負担になる。もし、古いシステムを廃止できず、ウェブ申請などの新たなシステムを追加したとしよう。複数のシステムを並存させてしまうと、システム依存度は増加する。
 その組織は、申請作業のたびに、あちこちのシステムを参照し、付加価値のない作業に時間を費やすことになる。エクセルで申請しようと思ったら、マニュアルがノーツデータベースにあって、申請はウェブ申請だった、というようなものだ。組み合わせの複雑さが増す分、コストが上がる。
 仮に労働時間が10時間として、書類仕事が1時間あったとする。システム依存度が増して、1.5時間に増加したとすると、生産性は5%ほど下がる。その5%分、ボーナスが減るか赤字部門が増加する。年収500万円なら25万円の損失である。こうしたコストに気づかない組織はやがて衰退する。

 システム依存度を高くすることが高機能で、高付加価値だと素朴に勘違いしている人々が多いように思う。仕事をやっているように見えるものの、実は、高コスト化に寄与してしまうことになる。
 こうした組織は、システム依存度の低い組織になぜ負けるのかわからないまま、淘汰されていくことになる。

 上の例の場合、ウェブ申請を導入するのであれば、エクセルやワードを廃止してシステム依存度を下げることで効率化する、書類作業をワンストップ化するという目的を明確化することが必要である。
 エクセルもウェブシステムも単なる手段である。廃止できないのであれば、システム依存度を高くしてしまうウェブ申請は導入せず、従来のエクセルでやればよい。混沌を増長するからだ。

 いま、パソコンメーカーが儲からなくなっていて、ネットにさえつながれば済むスマートフォンに代替されている。この場合、パソコンを作る側に就職して自分の時間を投入してしまうと、将来、淘汰される可能性が高い。
 自分の時間を投入するとき、おなじ努力をするのであれば、淘汰する側、システム依存度を小さくする側を選択したほうがよい。

 これは、何か知識や仕事を覚えるという場合も同じだ。ある特定の組織の、システム依存度を高くしてしまう業務について習熟しようと思ってはいけない。システムの一部が陳腐化しただけで自分の過去の努力や知識が無駄になる。社内独自システムというのでも同じだ。
 システム依存度を高くする発想に慣れてしまうと、システム依存度を低くしていく、競争力のある組織では通用しなくなる。経験が外部で通用しなくなるため、いま在籍している組織にトラップされて、抜けられなくなる。
 システム依存度を下げるものであればよいが、システム依存度が高くなる場合、それは付加価値ではなくコストと考えたほうがよい。淘汰されるリスクが増える。

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文系・理系の弊害

 高校教育から文系・理系にわけてしまうけれども、今はこの弊害が大きくなっていると思う。
 「理系だから…」、「文系だから…」というロジックはそもそもおかしい。
 外国人でこうした基準でものごとを判断をする人はあまりいないのではないだろうか。「経済が専門だから、…」のほうがまだよい。

 「理系だから経営は他人任せでよい」とか「文系だから技術的なところは誰かを信じればよい」といった考え方に慣れてしまうと、判断に弱点ができる。弱い集団になる。

 大学も、理系・文系でキャンパスを分けるなどせず、自分の専門分野を1つと、できるだけ離れた分野をもう1つくらい専門レベルで選べるとよい。

 これは、複数の専門を混ぜよといっているのではない。両方が選択でき個々を極めることのできる勉学の機会を与えよということだ。ラーメンとチャーハンがあったら、混ぜたらダメなのだ。

 例えば、計測工学と会計学を専門として学べるようにする。民法と計算機工学を同時に学べるようにする。材料工学と医療を同時に学べるようにする。
 大学院では、できるだけ異分野を組み合わせ相乗効果の高い研究ができたら高評価とする。
 いまどき、大学がこれくらいの機能と役割を持っていてもよいであろう。

 今は就職時、①専門分野、②外国語(英語)、③会計くらいの知識が必要ではないかと思う。

 会計は、財務・ファイナンスでもよい。これは、自分の給料がどうやって出てきているのか、感覚的に分からないといけないと思うからだ。赤字部門に配属されて数年が経つと、それが当たり前だと思ってしまう。危機察知能力、対応能力を失ってしまう。
 情報化が進んでいて、文系・理系でわけてしまうとか、自分の専門以外は知らなくてよいと発想するタイプの人々の弱点がことごとくさらけ出される環境になっている。

議論のパターン

議論のパターンについてまとめておこう。

① 情報を集める。まとめてみる。
  事前に、関係する事実・データ、各主張を集める。
  さらに、まとめておく。できるだけ平易な表現で書き出す。

② 公開する。
  過不足などがあれば修正する。
  事実が間違っているのであれば直す。

③ 議論する。
  主張をぶつけてみる。記録を取る。

④ 価値判断する。実行に移す。
  価値基準についてもまとめておく。

⑤ 結果を評価する。
  しばらく経って、価値判断が正しかったかどうかを見る。
  正しくなければ、事実認識①や価値観④を修正する。

 最近は、選挙でも政策でも、議論の様子がインターネットなどで公開されることが多い。けれども、いきなり③や④から始める人々が多い。

 すると、もともと意見や価値観の異なる人々が集まっているので、大抵、水かけ論になる。
 誰かの意見を聞こうとすると、①の事実の説明から話し始める。すると、その人の話をずっと聞いていないといけなくなる。誰かから事実が違うと指摘されると、話がごちゃごちゃになる。

 主張があるのなら、どこかに書いて公開しておいて欲しい。司会者も、パソコン画面を出して要点をまとめてくれるとよい。議論の後にインターネットで公開すればよい。

 義務教育や大学教育では先生が一方的に話すことが多い。議論や討論のトレーニングがされていない。すると、意見の対立があったとき、どう処理してよいかわからなくなる。模範解答や先生がない時代の対処ができなくなる。

 すると、その場の空気で決めるとか、声の大きな人で決まるとか、上司や年長者に決めてもらおう、などとしてしまう。
 価値判断の根拠がわからなくなるし、異論があったという記録もなかったりする。誰が決めたのかもわからない。会議はあっても議論がない。すると、失敗に学ぶことができず、失敗を繰り返すことになる。

 社会の価値観が激変していたり、海外に出て行ったとき、トップが外国人等との交渉で負けてしまう。また、基礎的な事実確認もないまま、企業買収やファンド購入などの価値判断をしてしまう。その人が偉くなればなるほど、損害が大きくなる。
 少なくとも、共通して合意できる程度の議論のパターンを作っておけば、蓄積が増えるに従い、歴史に学ぶ機会を増やすことができる。

簡素化という視点

 付加価値をつけたつもりで混沌とさせてしてしまう人々が多い。簡素化ができない。

 ごちゃごちゃにして、自分一人でもがくのならまあいいけれども、周りや後から来た人にそのまま投げてしまうので、弊害が大きすぎる。
 国の借金とか、トンネルの手抜き工事とか。使用済み核燃料などもそうです。

 普通なら、「作った本人が責任とれよ」ということで、たとえば、「借金にかかわった人々は消費税500%、相続も全額没収する」とか、「原子炉の掃除が終わるまで、関係者全員、後片づけにいけ」となるものだ。

 しかしながら、実際のところそうなっていない。するとどうなるか。
 できるだけ、ごちゃごちゃにして責任がわからなくする。その混沌を借金ごと他人に丸投げした方が得をする。
 こうなると、だんだんこうした価値観が人々に蔓延していく。

 5年や10年が経って世代交代が進むと、どうも人々が劣化しているんじゃないかと思うことが起こるようになる。どんなに偉い人でも例外ではないです。人の入れ替わりが進むと、人々の価値観がずれていく。

 日本の製造業が総崩れ状態ですが、いつの間にか、基本機能の強化とか、シンプル・イズ・ベストを忘れ、ごちゃごちゃしたオマケで売ろうという価値観になっている。機能をシンプルに見直したアップルに負けてしまう。

 ある意味、社会は因果応報にできているともいえる。何かの小さな欠陥や弱点があって、それが自分で修正できないとする。すると、やがては混沌が大きくなって、自分のところに返ってくる。
 企業とか学校、大学とか、製品、法律、医療とか、あらゆるところでも同じだと思う。
 自己否定の仕組みを内包しているかどうか、混沌をスクラップ&ビルドする仕組みを内包しているかどうか、が重要になる。

 簡素化する方法はこんなところであろう。

① そのシステムの機能の本質を書き出してみる。
② 機能しているところと機能していないところに分ける。
  省いても機能が失わなければ、それは枝葉である。
③ その機能をより効率的に実現するためにはどうなっていればよいか組み立てなおす。
④ 実行に移す。枝葉は捨てる。