不文法と成文法

 法律には、不文法と成文法というのがあって、不文法を採っている代表例はイギリスということを、昔、習った。
 この程度の説明だけを聞くと多くの人は、成文法のほうがきちんとしているという印象を持つと思う。

 「ルールは文章で規定されているほうが優れているし、安心できる」、「イギリスは、なぜ規定を文章にしないのだろうか。効率が悪い」という程度の認識になると思う。 
 これで思いつくものとして、ISO、国際標準化機構がある。規格や業務内容を文書で規定しておき、それに従うことがよいことだと思い込ませようとする一面がある。

 こうした考え方が強くなるとどうなるか。

 「規定がないのなら従わない」、「マニュアルで規定されていないのなら、その仕事はしない」、「文書で規定されていないものは自分の責任範囲ではない」と思い込むようになる。
 こうした人々を管理するには、どんどん規定を作るしかなくなる。規定がないと従わないし、働かないのだから。
 どんどん規定を作ると、一部の規定を変更することは、もっと難しくなる。他の規定と矛盾が生じてはいけないからだ。こうして、あらゆる組織ごとに規定が増殖し、作られた規定を変更することはもはや不可能になっていく。とても高コストで硬直化した組織ができあがる。
 原子の個数ですら、数グラムで10の数10乗のオーダーを超える。すべてを文字であらわすことは、もともと不可能だ。
 ルールが無限に作られ、社会は硬直化し、税負担なども増える。
 結局、その組織や社会にいる人々の程度に応じた社会システムが強化されるということだ。
 校則を無視しようとする生徒が多い学校に厳しい校則がたくさんあるようなものだ。ルールを欲した人々がルールでがんじがらめになるだけなので、因果応報といえる。

 企業の場合、どうなるか。
 新しい製品やサービスの作り方は、当然、文書には規定されていない。すると、過去の規定に記載されているのと同じ製品を作り続けたがるようになる。
 その結果、新年度セールやクリスマスセールのたび、ほとんど同じテレビや携帯電話、パソコンを発売し続ける。旧機種は買い叩かれるだけだ。
 中の部品の品質は変わらず、買い叩かれるだけの新製品の発売を繰り返している。驚くべきことに、彼らのうち誰一人として、それを止めることができない。彼らにできるのは、過去の規定に書かれた作業を早く繰り返すことだけだ。
 新しいコンセプトの製品は、当然、生み出せなくなる。規定に書いていないからだ。規定に従うことはよいことで、規定にないことをするのは悪いことなのだ。
 皆、自分で考えることをしなくなり、臨機応変、創意工夫という面が失われる。変化には対応できなくなる。儲かる製品の規定を誰かが作ってくれるのを待っているだけの集団になる。規定がないと、どうしたらよいか考えることができないのだ。

 また、文書に書かれている規定を守ればよいだけなら、創意工夫をしないのなら、安い海外製がある。同じネジ、同じ部品なら、台湾製、中国製のほうが安い。
 規定どおりの仕事をするだけなら、アウトソーシングされて海外と比較される。アウトソーシングせずに囲い込んでもよいが、その場合、その組織や周辺ごと、停滞していく。何とか工場のようなものだ。
 海外でもできる程度のマニュアル作業に従うことがよいことだと思い込んでいる人々が、モノづくりは日本が一番だと信じていて、だんだんそうした人々が没落していく。

 法律がどんどん作られた事例としては、中国の科挙制度が思い浮かぶ。科挙に合格した人々は確かに記憶力はあったのかもしれないが、彼らは何を残したのか。
 成文法的な発想が当たり前だと思うと、規定が増えて組織や社会は高コスト化、硬直化していく。
 ISOでも何でもよいが、自分たちは不文法にして、他人は成文法にしておく。規定や規格は文書化させて、同一枠内での価格競争に追い込む。すると、慣習の違いを利用した罠に気づかない程度の人々の労働を安く買い叩くことが可能となる。
 アヘン戦争の教科書的な記述からは外れてしまうかも知れないが、成文法で硬直化した中国は、臨機応変で小回りの利く、不文法のイギリスに負けたという解釈はできないだろうか。