10年以上も前の教科書で学ぶ人々

 総理大臣が昔の憲法学者の名前を知らないそうだけれども、自分が少し意外だったのは、有名大学の法学部ではいまだに10年以上も前の教科書、基本書で学んでいるということだ。
 法律の学者はここ10年、何をやっていたのだろうか。だから、法律分野の情報公開や情報化時代の著作権対応は進んでおらず、国際競争力がないのかと思ってしまう。
 法律を学ぶ人々も、こうした基本書や法律を学ぶのに、モチベーションが何年も続くのかと思う。10年以上前となると、スマートフォンはないし、Google なんて創業されたころだ。ネット検索も普及しておらず、膨大な知識を覚えていることに価値があった時代の基本書だ。違和感を感じないだろうか。

 インターネットで検索すると、工学や数学などでは、YouTube で有名大学の講義が無料で公開されている。一方、法律では、わかりやすい条文の解説、最高裁判決、通説、裁判の経緯などの情報が少ないと思う。
 法律体系を章別に個々わけてよいから、専門外の人や外国人であっても理解ができる程度の講義や情報が公開してあってもよいと思う。

 法律関連の人々は10年前の基本書は正しく、問題はないと考えているのだろうか。そうであれば、10年前に戻ったとすると、原子力発電所は安全・安心で壊れることはないし、憲法違反でもないということになるのであろう。彼らが見ているのは過去であって、現在や未来ではない。過去に強くバイアスがかかった人々が優秀であるとされ、実際、そうしたモノの見方をしている。

 弁護士法を見ると「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と書いてある。これを読んで、ジョークではなく、本当にそうだと思う人が、今、一体どれくらいいるのだろうか。
 もしこれが正しいのなら、法律関連の人々が安全としてきた発電所が壊れたのであれば、彼らは真っ先に、社会正義の実現ため、原子力発電所に入り、地元住民の救済にあたるのであろう。「ただちに健康には影響がありません」などとはいわないはずだ。

 最高裁等の裁判官が判断を間違え、法律家や大学教授全員が結果的にその見解を強化したり現状維持をする側についたとする。その結果、原子力発電所が続々と建設され、ついに壊れたとき、彼らには、後始末をする責任はないのだろうか。
 黙っていれば逃げ切れると思っているのだとするとひどい話だ。社会正義を謳っていた人々は消え、残された人々は後片付けをしないといけない。100年や200年が過ぎたとして、懲役刑のように後片付けをしている人々は、原子力発電所が安全と判断した裁判官や憲法学者、法律家をどう思うであろうか。

 「基本的人権の擁護は不可能です。社会正義の実現もできませんでした」と認めたほうがよいと思う。「他人の社会正義の実現より、自分の収入のほうが大切でした」としたほうがまだ建設的だ。