国語と法律

 仕事の中で法律が出てくることが結構多い。例えば、会計・税金であったり、知的財産法などもある。

 一方、過去に国語の授業を受けて何か役に立ったことがあったかと思うと、思いつくものがあまりない。国語に関しては試験勉強をした記憶がない。せいぜい漢字を覚えたくらいだ。何が到達基準なのか不明なのであった。

 国語教育の投資対効果を考えたとき、誰もが共通してプラスといえるような事項が少ないのではないだろうか。

 そこでであるが、法律の基礎的な読み方くらいは国語の授業に入れてはどうかと思う。
 義務教育や高校教育を受けたのであれば、その国の「法律の基礎的な解釈程度は可能であること」という教育目標の基準があってもよいはずだからだ。

 例えば、交通に関する法律から条文を抜粋し、基礎的な解釈について、トレーニングをする。条文に書いてあることをベースに、正確に解釈して論理的に適用する訓練をする。これを試験で出す。

 少し見方を変えてみよう。

 国会議員なり国の機関なりが法律の条文を作成するとき、「義務教育あるいは高校教育を受けた者が誤解をしない程度の、平易かつ簡素な表現で条文を作成すること」という基準があってもよいはずだ。

 憲法がよい例であろう。
 記載が平易でないところがあって、異なる解釈をする人々がいる。国語教育も不明確なので、解釈の基準も一致しない。同じ義務教育を受けてきたはずなのに、同一の文を見て異なる解釈をしている。

 結果、ずっと不毛な議論が続いてしまう。昔は、有名大学などの法学部卒の人々はものすごく優秀だと信じていた。しかしながら、不毛な議論を解消する決定打を誰も打ち出すことができない。
 青色発光ダイオードの発明のように、昔は不可能といわれていたのに、今は可能になったという人類の進歩があってもよいはずだ。本当に優秀なのであれば、誰もが納得するような、すばらしい解釈や解決策が出てきてもよいはずだ。

 しかしながら、憲法の論議を60年以上もやっていて、いまだに続いている。優秀な法律家や裁判官、大学教授、政治家が多数いたはずだ。
 ずっと議論が続いて決定的な結論はいまだに出ていない。この先、例えば100年議論を続けて、何か生産的なものが生まれるのか。
 法律関係の人々に取っては自分たちの給料が税金によってまかなわれるというメリットがある。しかしながら、その他の納税者に取って利益があるだろうか。
 そこで、法律関係者ではない、多くの人々への貢献度を仮に不明、ゼロとしよう。

 他方、かかったコストを見積もってみよう。裁判官や大学教授等の人数をざっと5000人とし、平均年収を1000万円とする。すると、年間あたり500億円のコストがかかる。これが60年続いている。
 物価変動を無視すると、単純計算で3兆円となる。立法は政治家も関わるので多少、増やして5兆円というところか(どなたか、正確な計算ができる人、お願いします)。

 必ずしも彼らのすべてが、憲法を専門にしていたとはいえない。しかし、憲法でこうなのだから、他でも似たようなものであろうと思われても仕方がないであろう。

 すると、この5兆円は本来誰が負担すべきだったかということになる。青色発光ダイオードであれば白色LEDに応用されて電気代の節約になるなどのメリットがある。購入する人が費用を負担する。
 しかし、60年の法律論議は、何のメリットがあったのであろう。効果が不明なものに対するコストを税金で負担するのは公平といえるであろうか。メリットがあるという人々がいるのであれば、その人々が5兆円を負担すればよい。

 国語教育も法律関連の人々もあまり期待ができないとなると、双方の予算を削減し、組織も多少リストラクチャリングしてはどうだろうか。
 そして、条文を平易な表現に改善し、国語で論理のトレーニングをする。日本語も外国語も論理は共通である。海外でも十分に通用する人材が増えるというメリットが生まれる。

                         終わり