インターネットの検証能力

今年だけでも、科学論文での不正が暴かれたり、新聞社が過去の誤報で信用を失ったりしている。
いずれもインターネットの影響が大きい。どういうことか。特徴を列挙しておこう。

・ インターネット上に情報を載せるコストがほぼゼロになった。

 人の創作活動には、文章、絵画、音声、音楽などがある。インターネットがこれらを一通りカバーするようになった。そして、これらの、出版物、記事などの思想や動画をネット上にアップして維持するコストがほとんどゼロになった。

・ インターネット上に情報の集約が進んだ。

 編集前の一次情報や記事、過去の音声・動画ついても、ネット上に情報が集約されるようになった。
 文字情報に換算すると無限といえるくらいの多量の情報がネット上に蓄積された。

・ 誰でも情報にアクセスできるようになった。

 インターネットの普及前であれば、各専門分野の最新情報にアクセスできるのは専門家等に限られていた。真偽のチェックも部外者にはできなかった。チェックする人数も限られていた。
 いまは、無数の人々がネットにアクセスできるようになった。日本のインターネット人口は1億人前後とのことだ。ネット人口が多数派になった。

・ ネット上の比較検証のコストがほぼゼロになった。

 ネット上に情報が集約されて、過去の言動や文書の比較、検証が容易になった。
素人と思われるような多くの人でも、単純なコピー&ペーストのチェックができるようになった。また、言動を比較して、矛盾があることを容易に確認できるようになった。新聞社や記者がどのように一次情報を加工して報道しているかもわかるようになった。
 ネットの集合知ともいわれる特徴が発揮されやすくなった。

 ただしこれは、ネット上の比較検証のコストだけが劇的に下がったということだ。

 従来のメディアに依存している人に取っての比較検証のコストは高いままだ。たとえば、新聞を購読している人が、数十年前のいくつかの記事と今日の記事を比較して矛盾がないか確認しようと思っても、事実上、不可能であろう。
 新聞だけを取っている人、テレビだけを見ている人からすると、比較検証を自分で行うコストは高すぎる。自分で確認するのは放棄して記事をそのまま受け入れた方がコスト的に見合う。せいぜい、複数の新聞を比較する程度となる。

・ 以前であれば誰も指摘しなかったことでも指摘されるようになった。

 新聞や論文の場合、従来は、情報は購読者にしか伝わらなかった。
 しかしいまはネットですぐに広く伝わるようになった。
 非公開を意図していた調書なども、一次情報が簡単に公開されるようになった。

 情報を小出しにして世論を操作する、などがやりにくくなった。
 一次情報の開示を求められたり、一部を抽出して表現を加工していることが指摘されるようになった。

 また、記者が現場を理解できておらず取材力がないことも指摘されるようになった。
 記事を内製しようとしても内容が書けず、作文だけ、伝聞だけになっていることが指摘されるようになった。

・ 論点が何かがはっきりわかるようになった。

 論点が何かがわからないと相手の主張を認めて穏便にしておくということになりやすい。とりあえず謝罪して丸く収めようということになりやすい。
 ネットが普及し、何が問題か、論点がはっきりするようになった。
 論点がはっきりすると、言動のなかでどこをどうごまかしているかわかるようになった。どこで反論すべきか、どこを検証すべきかが明確になった。

・ インターネットのほうが次元的に高いところにいる。

 インターネットは従来の報道機関からは一段低いものと考えられているようである。
 しかしながら実際は、インターネットは、新聞や出版物、テレビ、ラジオよりも高い次元にいる。

 新聞であれば、過去の音声や動画そのものを、そのまま紙面に載せることができない。必ず、文字情報に変換する作業が生じる。音声・動画情報そのものについては検証する能力がないということだ。
 また、情報の加工にあたり編集作業が伴う。従来は、写真や動画、音声を伝えるコストが文字を伝えるコストに比べて高すぎたので、編集作業は付加価値であった。しかし今は、生の情報の伝達コストが劇的に下がった。すると、文字情報に変換する際に情報が失われたり、偏ったりするデメリットのほうが大きくなった。
 テレビの場合は、他局の報道をそのまま引用することが難しい。また、複数の新聞記事を並べてじっくり比べたいという需要に対しては向かない、応えられない。

 ネットであれば、過去の記事を比較して読み比べるのは容易だ。動画を何回も聞き直してみることも容易だ。文字も動画もネットに吸収されていて、ネットの方が次元的に高いところにいる。

 文字や言論だけの世界にいた旧メディアの人々が従来と同じようにネットと争おうとしても、勝てなくなっている。従来のように情報を加工して流すことで、一部の人々の行動に影響を与えようとしても、編集側のパターンが見抜かれている。
 言語能力やリテラシー能力がいかに高くても、加工前の情報を示されて偏っていると指摘されたり、過去の言動の矛盾を動画などで比較して見せられると説得力を失ってしまう。
 過去の報道の真偽を争えば争うほど、ネットのほうが全体を比較したり鳥瞰するにはわかりやすく適しているので、人々はネットに流れてしまい、読者や発行部数を減らすことになる。

対応のポイント 

 この傾向は今後も進むであろう。
 将来に備えるため、対応のポイント等を挙げるとつぎのようなところであろう。

・ 情報操作のように、情報が外部に公開されたときに後ろめたいと思うようなことはしないほうがよい。
  内輪のやり取りと思っていても、いつかは外部に公開されると思ったほうがよい。
・ 閉鎖的な組織の破たんは今後も続くであろう。
  クローズしたシステムを作りこんだり維持しようとしても疲弊的だ。
  情報を率先して公開し、ネットを取り込んでしまうくらいの発想をしたほうがよい。

GDPについて把握しておこう

世界のGDPは約70兆ドル(2012年、名目GDP)とのことだ。世界の人口を70億人として1ドル100円とすると、70兆ドル/70億人≒100兆円/億人=100万円/人となる。概算ではあるが、世界で平均すると、1人あたり年収100万円に相当する。

アメリカのGDPは18兆ドル、日本のGDPは6兆ドル程度となっている。同様に1ドル=100円で日本円に換算すると、1,800兆円、600兆円となる。1ドル=120円換算なら、1,500兆円、500兆円となる。
アメリカの人口(3億1千万人)は日本(約1億3千万人)の約2倍強なのだが稼ぎは3倍ある。日本のほうが効率が悪いということになる。もう少し正確にいえば、人口は2.3倍多いが収入は3倍なので、2.3/3=77% となる。国際競争力を上げようと思うのであれば、日本のほうが2割程度、効率が悪いことをしていると思ったほうが健全だ。

簡単のため、日本のGDPは500兆円として、日本の人口を丸めて1億人とすると、500兆円/1億人=500万円/人となる。1人あたり年収500万円に相当する(注1)。

もう少し細かく把握しておこう。
日本の労働力人口は6,000万人程度とのことなので、日本の総人口1億3,000万人の約半分が働いている。人口1億で丸めると、約6割が働いているとみなしてよい。
また、GDPは、売上から原価(=そのまま海外などに出て行くお金)を引いた粗利に相当するが、粗利のすべてが給料になるわけではない。企業の取り分もある。粗利のうち、労働者に分配される比率を労働分配率といい、日本の場合は約6割とのことだ。
そこで、1人あたりの給料をもう少し正確に求めてみると、(500兆円×労働分配率0.6)/(人口1億×労働力人口比率0.6)=500兆円/億人となって上の計算と同じになり、500万円/人となる。平均年収500万円となる。
結局、GDP 500兆円と聞いたら、そのまま、年収500万円と読み替えればよい。

これは、課税前の所得だ。

所得税率と地方税率(住民税率)は、それぞれ、20%、10%程度となっている(年収500万円で)。また、社会保険料も実質10%程度となっている。社会保険料は企業と折半等となっているが、人を雇って赤字になるなら企業が社員を雇用するはずがない。実質、労働者が払っている。
税金も煩雑な仕組みになっていて、控除など国民の要望を反映させたようではあるけれども、それぞれの仕組みごとに行政や資格者(公認会計士、税理士など)が手数料を得るように作ってあるということだ。

サラリーマンの側からすると、結局、税率は合計で約40%となる。要するに、労働で得た収入のうち、約半分弱が税払いに充てられると思えばよい。

税金は500万円×40%=200万円、手取りは300万円となる。
ボーナス100万円程度とするなら、月の手取りは20万円前後となる。都心に住んでいるとして、家賃10万円弱、衣食10万円前後とすると、ギリギリの生活となる。
年齢が若いと手取りはこれより下がるし、年齢が上がると手取りは増えるが家賃・教育費等の出費も上がっていく。
サラリーマンであれば、生活費を切り詰めるか、地方に勤務して家賃を下げる、親と同居する、などの工夫が必要になってくる。

つぎに税収という観点で把握しておこう。

500兆円の粗利(GDP)があったとして、日本の総消費、すなわち、その年のうち消費に回る金額は300兆円程度といわれている。500万円のうち手取りが300万円程度なので、だいたい、つじつまが合うことになる。また、消費税率を1%上げると2.5兆円前後の増収になるといわれているので、300兆円×1%に相当すると考えると、やはり、つじつまが合う。

消費税は現在8%なので、総消費300兆円×8%=24兆円となる。年収500万円なら、24万円が消費税となる。消費税が10%となると30万円の支払いとなる。

サラリーマンの場合、直接税の実質負担が約40%、消費税が約10%なので、だいたい半分が税払いとなる。どうりで生活がつらいわけだ。

多くの人は、就職して数年はギリギリの生活となる。結婚して共働きで収入が倍となると、家賃や食費の負担を減らせた分、生活が楽になる。
また公務員は、意図的に基本給を下げ家賃補助などを増やしているので、税払いを逃れた分、丸々、生活が楽になる。
基本給ではなく補助を得るようにすれば、10万円の補助は20万円の基本給(税を引かれてほぼ半分になる)相当の価値があるということだ。

少し見方を変えると、多くのサラリーマンがギリギリの生活となる程度に税負担が設定してある、ともいえる。また、ギリギリの生活にしないと多くの人は働かない、効率の悪い企業にいったん就職してしまうとなかなか転職できない(仕事を辞めるとすぐに生活が破たんする。人材の流動性が失われ、国際競争力も改善されない)、という言い方もできる。
また、公務員などに家賃補助などをすればするほど、効率を下げる仕事(制度、書類仕事)を増やして増税側に回る、という言い方もできる。
勤労所得は税負担が40%だが、株式配当金利収入は税負担が20%程度なので、勤労所得のみに収入を依存してしまうと疲弊感が強くなるともいえる。

義務教育や高校教育くらいで、収入や支出が上の程度になるということくらいは教えてあったほうがよいと思う。その後どうなるか知らないまま職業選択することになってしまう。また、なぜ疲弊感が強いかわからないまま5年や10年、働き続けることになってしまう。







注1 つぎの関係を覚えておくと便利である。

万=10^4
億=10^8
兆=10^12
1万×1億=1兆 
1万×1万=1億

ヒートアイランドの改善方法

毎年、暑くなると打ち水でもして何とか涼しくできないかといつも思う。
太陽エネルギーと蒸発熱について考えてみよう。

地球が受ける単位面積当たりの太陽エネルギーのことを太陽定数といい、1.37 kW/m^2 = 1.96 cal/(cm^2・min) (大気圏外で)となっている。
このうち 50% 程度が地表に届くとすると、1.37 kW/m^2 x 1/2 = 685 W/m^2 程度となる。日本は緯度が高いので多少割り引いて 500 W/m^2 程度としてよいだろう。

ドライヤーの消費電力は 1,000 W くらいなので、1平方メートルあたりに1個ずつドライヤーを敷き詰め、温度を弱に設定したくらいの発熱量に相当する。どうりで日光が真上から当たる真夏は異常に暑いわけだ。

太陽光の場合、ドライヤーの温風とは異なり、輻射熱としてエネルギーが伝わることになる。電気ストーブと同じで光のように熱が伝わる。遮蔽して影ができると、遮蔽した物体側の温度が上がり、影になったところには熱が伝わらなくなる。

太陽光がコンクリートアスファルトに当たると、この太陽熱のエネルギーはコンクリート等の体積全体に吸収され、温度が上昇する。
マンションなどのコンクリートは体積(熱容量)が大きいので、いったん温度が上がってしまうと、なかなか温度が下がらない。コンクリートアスファルトで囲まれた都会では、コンクリートどうしが互いに輻射熱を出し合うことになる。舗装された道路を人が歩くと、周囲を電気ストーブで囲まれたような状態となってヒートアイランド現象となる。また、夕方になるほど建物や道路に蓄積される熱量が大きくなるので暑さがひどくなることになる。

なので、コンクリートなどの体積が大きなものについては、温度が上がる前に打ち水などをしておき、蒸発熱で温度上昇を遅らせると効果があるといえる。

体積が大きなベランダ、道路、マンションの壁などに直射日光が当たると、なかなか温度が下がらなくなってしまう。なので、直射日光が当たる部分は、熱容量が小さなモノで遮蔽するのがよいことになる。面積が大きく熱容量(体積)が小さいとなると、薄い板状のものとなる。たとえば、すだれやアサガオなどの植物(葉)で太陽光を遮るというのは理に適っているといえる。

つぎに、1平方メートルの面積を 1m x 1m x 0.3mm 程度の鉄板で遮蔽したとして、直射日光が当たったときの温度上昇を見積もってみよう。
鉄板の体積は 100cm x 100cm x 0.03cm = 300 cm^3 となる。鉄の比重は 7.87 g/cm^3 程度なので、重量は 7.87 g/cm^3 x 300 cm^3 = 2.3 kg となる。だいたい 2 kg の鉄板となる。
鉄の比熱は 460 J/kg・℃程度となっている。2.3 kg の鉄板の場合、460 J/kg・℃ × 2.3kg = 1,058 J/℃ となる。言い換えると、1J のエネルギーを与えると、1/1,058 ℃だけ温度が上昇する(熱の逃げは無視する)。

直射日光による熱量は 500 W/m^2 = 500 J/s・m^2 程度だった。そこで、この熱量を鉄板の温度上昇に換算してみると、500 J/s・m^2 x 1 m^2 x 1/1,058 ℃/J = 0.472 ℃/s となる。1分あたり、28℃ (= 0.472℃/s x 60s) も温度上昇することになる。
外気温が 30度なら、数分で58℃くらいの温度に上がりうる見積もりとなる。もっとも、鉄板の温度が高くなりすぎると輻射熱による熱の逃げが大きくなるので、温度の上昇は緩やかになる。しかし、やけどをするくらいの温度にはなりうるということだ。

さてここで、打ち水をしたとして気化熱で熱を逃がすことを考えよう。

上の鉄板に打ち水をしたとして1平方メートルに撒く水の量を仮にコップ1杯(180g)程度としよう。蒸発熱は文献等にあって、180g の水の蒸発熱は計算してみると 400 kJ 程度となる。コップ1杯の水を1時間で蒸発させるとすると、熱の逃げ量は、ワット数換算で 110 W 程度となる。

1平方メートルあたり、太陽光による熱エネルギーが 500W もある。一方、この面積に1時間ごとにコップ1杯の打ち水をして蒸発させたとしても、110 W 程度の熱エネルギーを奪うだけだ。放熱量が全然足りない。しかも蒸発熱で換算しているので、水滴を残さず蒸発させたベストの場合でも熱の放出量が足りないことになる。

直射日光が強い日は、1日に数回の打ち水程度では、まさに焼け石に水という見積もりとなる。

10分おきにコップ1杯の水を撒くくらいでないといけない。しかも、撒いた水はすべて乾燥させるくらいでないといけない。
すると、水を撒くのは人が行うよりもミストの噴霧器のようなもののほうが適していることになる。また、10分おきくらいに間欠的に水を撒き、水が地面に落ちるまでに乾燥するくらいがよいことになるため、高いところから噴霧するのがよいことになる。

直射日光が当たるところは板状のもので遮蔽し、太陽光が当たって高温になる部分の近辺を10分置きくらいに噴霧するとよいことになる。

すると、家庭用としては、ペットボトルくらいの水量が入り電池式になっていて、10分置きくらいに噴霧できるモノがあるとよいことになる。屋根やベランダなどで直射日光が当たりやすいところ、高温になるところにおいておき、噴霧させておけばよい。

太陽光の熱量と蒸発熱から見積もると、上記のような結論になる。しかしながら残念なことに、ネットで探してもこのような製品は見当たらない。
どなたか格安で製品化・販売してもらえないだろうか。似たようなものを探すとトイレの液体芳香剤で電池式のものがある。1,000円くらいだ。これを改造すればよい。

こうした噴霧器をベランダのエアコンの室外機の近辺など、高温で乾燥しやすいところに設置する。すると、冷却効率が上がるのでエアコンの消費電力も改善する。
各家庭の夏の電気代は1万円前後であろうから、電気代が数%〜何割か節約できるのであれば普及する可能性がある。ヒートアイランドなど生活環境の改善や節電につながるはずだ。

破壊的イノベーションのステップ

破壊的イノベーションのステップについてまとめておこう。
よく知られている内容であるが、変化が著しい分野でもあるので書いておこう。

ステップ1 オモチャのような技術が現れる。

 ある業界の下層に、突如としてオモチャのような技術が現れる。
 業界内の人からすると、受け入れがたいが気にはなるというタイプのものだ。
 業界の権威、プロに聞くと「あれはオモチャだ」という。
 確かにプロの製品やサービスと比較すると、明らかに見劣りする。
 品質的に劣るという証拠がある。否定して安心しようとするマインドが働く。

ステップ2 業界の外の素人にオモチャが普及していく。

 しかし、オモチャなので格安だったり無料だったりする。
 オモチャと思っていたものが、業界の外の素人のような人々には普及していく。
 
 プロよりアマチュアのほうが人数が多い。従来の業界の外でオモチャが普及する。
 普及するにつれ、オモチャもユーザの要求を受けて改善されていく。オモチャの品質が上がり始める。オモチャが進化するスピードと、業界が変化するスピードを比べると、オモチャの進化のほうが速い。
 プロを負かすような素人が出てくる。明らかにダメなプロはあぶりだされる。

ステップ3 業界の成長が止まる。あるいは下がり始める。

 オモチャとはいえ、プロのサービス・機能と共通する。
 業界は大所帯で変化が遅い。動きが鈍い。

 オモチャが広がるにつれ、次第に、業界の売上や成長が止まる。業界内では人を削減しないといけなくなる。より少ない人でより多くの仕事を回さないといけなくなる。
 小さくなっていくのは旧来の業界だけであって、素人も含めた新たなマーケットは広がっている。

ステップ4 旧来の業界が破たんしていく。

 業界をトップ層、ボトム層にわけたとする。
 すると、ボトム層で業界の破たんが起こり始める。経営統合、再編が起こる。
 ボトム層はもともとトップ層のモノマネで成り立っていたところがある。
 企画管理、立案をする部門がトップ層や流行のモノマネをして、それ以外は運営だけでやっていた。
 そのような、ぶら下がっていただけの人々の人件費が稼げなくなる。

ステップ5 オモチャが社会に受け入れられる。

 普及率が上がりオモチャが市場に浸透する。
 素人や社会はオモチャを支持する。旧来の業界は大半が見捨てられる。
 旧来の業界で価値を生み出してきたトップ層は自分自身を変革して生き残る。自然淘汰が起こる。

 ざっと上記のようなところであろう。

 オモチャは、「2.5インチハードディスク」であってもよいし、「デジタルカメラ」、「大学の講義の動画」、「インターネットニュース」、「将棋ソフト」、「電気自動車」であってもよい。

 破壊されていくというと否定的な捉え方をする人々が多い。

 人々を農耕民族と狩猟民族にわけたとき、毎年同じ農作業をすることがよいことだという発想をする人がかなりいる。農耕民族的な発想からすると、去年と同じことを繰り返すのがよいことだ。同じことを繰り返していたほうが楽だ。従来の慣習を壊すのは悪いことだ、となる。
 しかし、狩猟民族的にみれば、獲物がいなくなったのであれば従来のこだわりは捨て、場所を変えて作戦を立て直すという発想も重要だ。狩猟の場合は、まったく同じパターンを繰り返すことのほうが少ないであろう。

 どちらにせよ未来には破壊されることがわかっているのであれば、早く崩壊させたほうがよいという発想もあるということだ。
 結局、社会にとって価値を生み出していない人々は淘汰されていく。無料ウェブサービスのようなものに代替されていく。

 大学などもトップの大学は生き残るであろう。しかし、人気のない大学は、ウェブの無料の動画の講義と比較され、経営破たんや統合が起こるであろう。役所や規制産業も同じことだ。

 身の周りで上記のパターンに当てはまるものを探してみて、当てはまりそうなものは破壊的イノベーションのパターンではないかと考えて備えておく(先に撤退したり、発想を切り替えておく)ほうがよい。

やはり壊れているとしかいいようがない

諫早湾干拓で開門しても開門しなくても国は制裁金を払うべしという判決が出ているとのことだ。

 報道では、国が制裁金を払うといっているが、内閣の方々のポケットマネーから支払われるわけではないであろう。実質、納税者が払うことになる。正確な表現で報道したほうがよいと思う。

 「開門したら納税者は制裁金を払え。開門しなくても納税者は制裁金を払え」が裁判所のメッセージである。

 過去の政治家の判断がまずかったという指摘もある。しかし、過去にどんな判断があったにせよ、判決の論理が破たんしているのでは、裁判の妥当性や納得性があるとは思えないであろう。
 民事訴訟法の欠陥だという指摘もある。そうであれば、なおさら、裁判所なり法律家はなぜこうした論理破綻を放置したのかということになる。法律家が法律が悪いというのでは自己矛盾になる。リーガルマインドはどこにいったのであろう。

 開門しても開門しなくても、納税者は一方的に不利益を被る。
 裁判所は、納税者にとって一方的に不利になる判決を出す権限を持っているのだろうか。
 せっかくなら、「500兆円を漁業者に渡せ。渡さない場合は、500兆円を農業者に渡せ」といってみてほしかった。裁判所がその程度の人々であるということに誰もが気づくであろう。
 原発事故のように、もし漁業者・農業者の損害額が日本のGDPに匹敵する程度と仮定したらどうなるか、ということだ。

 納税者に制裁金を強制するのであれば、過去に裁判所なり裁判官、職員がもらっていた税金(給料)を全額返上したうえで、利害関係のない立場になってから言ってほしい。自分は税金をもらっておきながらさらに税金を払えというのでは、何とかに追い銭になってしまう。
 開門してもよいし、開門しなくてもよいといっているだけの人々だ。存在意義がないと判断されても仕方がないであろう。
 理化学研究所も研究費の返却を求めるというような話があるのだから、裁判所も税金の返却を率先して行ってほしい。

 世代交代が進んだからか、人々や組織が劣化しているのではないだろうか。いま裁判官などになっている年代の方々の傾向なのであろうか。数十年前であれば人様に迷惑をかけないといって、自分たちを律する人々が多かったと思う。
 このようなことを繰り返していても労力の無駄だ。若い人であれば、壊れていると思われる業界には入らないほうがよい。人生を無駄にする。

 いまなら、グーグルのような企業が過去の判例検索をして統計的に判定するシステムを作ったほうが解決が早いであろう。近い将来は、多くの人々が統計的に妥当だと思う判決がソフトウェアで自動生成できるようになると思う。

情報産業の失敗パターン

情報化は今後、官民問わず、あらゆる分野で起こる。情報産業の失敗パターンがまとめてあったほうがよい。

・ 同じマーケットに皆が殺到する 

 ニュースなどでブームだと報道されると、経営陣含め、皆が同じサービスを提供しようとする。提供される機能はデジタルなので差異がない。低価格にするか長時間労働で補うしかなくなる。結局、デスマーチ化する。
 かつて、アメリカでゴールドラッシュが起きた。砂金取りに殺到した人々は皆、金を買い叩かれ、儲けることはできなかった。儲けたのは、スコップの販売や鉄道サービス会社だった、というようなものだ。

 価格競争になるのは、横並びの発想をしていて、なおかつ、自分の人件費を上乗せしてサービスをしようとする発想しかできないからだ。最初からサービスを無料化しても成り立つようなアイディアでないといけない。

・ ハードウェアの発想をしてしまう 

 情報を扱うはずだったのだが、サーバーやPCなど機器・システムなどのハードウェアを売って儲けようとする。また、ハードのメンテナンスで利益を得ようとしてしまう。ハードウェアの代金を取る格好になるので、パソコンがバージョンアップして通信がうまくいかなくなると、ハードウェアのクレームを受ける格好になる。
 結果、顧客数に比例するように、故障対応、不具合時のバグチェック、電話対応、訪問対応が増加していき、耐えられなくなる。

・ 複雑度がべき乗的に増える 

 情報サービスを続けると、サービスやシステムの種類は増えていく。顧客が増加し、組織も複雑化する。
 それらの人・サービスの組み合わせの複雑度はべき乗のように増していく。顧客対応や社内の書類、打ち合わせの数が増加していく。同じ社内であっても、新技術を理解しない人々、上司が増加していく。対応できなくなってしまう。

・ 囲い込まれてしまう 

 設計ツールやシステム自体が Windows ベースであったり、C# であったりして、Microsoft など特定の企業に囲い込まれてしまう。
 顧客にしても、得意先や大手企業であったりすると、囲い込まれてしまい、顧客の無理な要求も呑まないといけない状況になる。
 所属する企業でも、進捗管理ツールが決められており、管理が強化される傾向がある。
 囲い込まれた、非常に限定された条件下で、複数の人々が競争をすることになる。多くの人々が価格競争に追い込まれてしまう。囲い込まれてしまうと、経験が外部では通用しにくくなる。
 Windows がバージョンアップすると、Microsoft の対応コストを自分が負う羽目になる。旧式のシステムのメンテナンスコストが上乗せされていく。

 ざっと、上記のようなところであろうか。他にもあれば追加したいところだ。
 情報産業のみならず、他の分野でも上記と似た状況が繰り返されるであろう。上の逆をいくくらいでないといけない。

試験問題の飛び級

情報化が進んだ将来の試験制度について考えてみよう。

過去、学校の数学や物理、国語の試験でとんでもなく高成績を取る人々がいた。彼らは有名大学や医学部、法学部などに進学していった。
パソコンのように、10年以上前は30万円した製品と同じ性能のものが、いまは3万円という事例はいくらでもある。
したがって、本当に医療の才能がある人々がその業界に進んで能力を発揮しているのであれば、医療費が10分の1になるような医療革命が続出していてもよい。

現実はどうか。

風邪や花粉症を瞬時に治す画期的な発明がされたのだろうか。法学であれば、あらゆる難問をたちどころに解決する法理論が打ち立てられたのであろうか。

どちらかというと優秀だと思われた人々は、例えば医者の資格を得て高い年収を得るということになっている。できるだけ若いうちに既得権を得て、既得権を得たらその権利を享受し続けるという立場になっている。結局その才能は、収入や地位を得る手段だったということだ。

過去、数学の才能がすばらしい人々がいた。医学の道に進んだのであれば、彼らのすばらしさが発揮され、医療革命が現実化していく。将来有望だと思っていた。しかし、既得権を得て終わっているのだとすると、それは何の才能だったのだろうか。
中学校や高校受験などでも同じだ。ものすごく優秀だったはずの人々の才能はどうなったか。


一般に試験の内容を分類するとつぎのようになるであろう。
① 知識を問うもの
② 計算など加工能力を問うもの 
③ 論旨を問うもの 
④ 論理の組み立て方などを問うもの 

試験制度というものは、たいてい、試験範囲と試験時間が限られている。限られた範囲内での知識か情報処理能力を問う内容になっている。

これだと最先端に届かない。出題範囲は限定されているが、最先端は進んでいくからだ。
最先端とは違うところで競争をしていることになる。こうした競争を、高校、大学、大学院、その他、資格試験のたびに続けているのだとすると、疲弊的すぎる。
最先端のレベルは上がっているのに、大学受験で要求されるレベルが10年前と同じであってよいのだろうか。
中学校受験の数学で高成績を取っていたとしても、試験範囲が限定されているのであれば、その範囲に労力をかけすぎるのはもったいない。いくら習熟したとしても世界の最先端で通用するとはいえない。最先端から遠すぎる。

試験の才能があったとしても、パズルを解くのが早いとか、トランプの裏側をたくさん暗記できるというようなものとあまり変わらない。
ゼロを教えずにゼロの発見をさせるようなものだ。ゼロが発見されていない古代ではゼロの発見は画期的であった。しかし、いま、自分の力でゼロを再発見したとしても、残念ながら意味がない。先に進んだほうがよい。

一方、情報化が進んで、単なる知識であればネットで代替される。したがって、上の①や②に習熟する程度の従来のやり方では、だんだん社会に通用しなくなってきている。既得権を与えたとしても、ネット上の無料の情報と大差がない。

試験制度や資格を与える仕組みが古くなってきたといえる。範囲を限定し、限定した中で多くの人々に過度の競争をさせる。これでは無駄が多すぎるし、その後の成果が乏しすぎる。試験対策もゲームの攻略法のようになっていて、あまり意味のないところでの競争になっている。要領のよさや情報処理能力を見るだけの試験になっている。

そこでであるが、試験問題のうち1題くらいは、進学後に学ぶ1ランク先のものから出題してはどうだろうか。人間が飛び級をするのではなく、試験問題が飛び級をするのだ。

中学校受験なら、1題は高校受験か大学受験の試験問題を出す。大学受験であれば、6題中1題は大学院の試験問題から出す。大学院受験であれば1題は、最近のノーベル賞受賞者の論文から解釈、解説を問う。引用回数の多い論文から出題してもよいし、ライセンス料が高額な特許から出題してもよい。

こうすると、その1題は白紙答案が続出する。採点も難しくなる。大学教授の能力を超える難問も出てくる。そこであらかじめ、1題については正解のない出題をすると公言しておくことにする。採点は、提出された解答の中から妥当と思われるものがもしあれば正解にすることに決めておく。場合によっては、パソコンでの検索や持ち込みも可とする。

このようにすると、従来の受験機関は崩壊する。試験範囲に制約がなくなって試験対策のしようがなくなるからだ。

また、試験科目を既得権を得るための単なる手段としてこなすタイプの人々も減るであろう。最先端の数学には興味も才能もないのだが、大学の受験数学だけは暗記してしまっていて得点能力が高いというタイプも減るであろう。
試験範囲が決まっていないことに怒り出す人々や、正解がないことに耐えられないタイプの人々も一掃される。考えるところを暗記でこなそうとするタイプの人々も、試験範囲に制約がなくなると、覚えきれなくなる。
本当に数学などに興味があって、先の勉強をどんどん進めたいというタイプの人が有利になる。いまは大学や大学院レベルの知識もネットで公開されている。試験範囲を限定することに意味がなくなっている。放っておくと、どんどん最先端に進んでいくタイプが最短距離で優遇されるようになっていればよい。